長崎発 機能性食品素材
みかん・びわ葉の混合発酵茶

開発ストーリー

開発ストーリー  〜 奇跡の混合発酵物語 〜

緑茶でもない紅茶でもない、新しいカテゴリーのお茶「混合発酵茶」。

産官学プロジェクトとして20年以上の長い年月にわたり製造方法、成分、機能性などの研究を続けている混合発酵茶は、茶葉と農産物を揉み込んで発酵させる世界初の製造方法で作られる機能性素材だ。

長崎の特産品且つ未利用資源を活かした新しいお茶に関係者の苦労と努力を見た。

ストーリー1 〜 原点 〜

長崎のお茶の歴史と背景

現在の日本茶の栽培は鎌倉時代初期の1191年、栄西禅師が修行先の中国(宗)から茶の種子を携えて長崎県平戸島に帰着、禅道場「富春庵」の畑にその種子を播いたのがはじまり。

江戸時代初期の1654年には、中国(明)から長崎に渡った隠元禅師が、釜炒り茶の製法を伝承。

これを機にお茶が庶民の飲み物として普及した。

また、長崎・出島のオランダ商館医師で博物学的研究を行ったケンペル、ツュンベリー、シーボルトは、それぞれ日本茶に関心を寄せ、ヨーロッパで紹介している。

幕末には、長崎の女貿易商の大浦慶が、イギリス、アメリカ、アラビアの3ケ国に日本茶を輸出。

近代日本茶輸出の先駆けとなったのだ。

そんな長崎でも一番多くの生産量を誇るのは、東彼杵(ひがしそのぎ)町だ。

長崎県の中央部に位置し、豊かな海と山々に囲まれた町でお茶の栽培にも適した産地である。

長崎から革新的なお茶を開発するために立ち上がった一人の研究者

【混合発酵茶研究プロジェクトの発起人、宮田裕司さん。】

宮田さんは宮崎大学を卒業した後、大手ハムメーカーに就職した。

仕事にやりがいを感じず、違い職業に就きたいと、国家公務員試験を受験する。

見事、国家公務員1級に合格したが、地方職の方が自分がやりたいことができるかもしれないと、地元である長崎県の職員を選んだ。

それからは農業普及員を経て、長崎県農林技術開発センター茶業研究室に着任した。

そこでは過去の旺盛と今後の衰退の茶業界の現状を知ることになる。

当時、2000年頃は茶業の最盛期ともいえる時期で、作れば高値で売れる時代だった。

しかし、ペットボトル茶の普及や生活様式の変化により従来飲まれていたような急須で飲むリーフ茶の需要が減少していった。

それに伴い、大産地ではない特に山間地域が産地の長崎の茶業は厳しい状況にあった。

どうにか長崎のお茶が売れる方法はないか…と思慮している時にひとつの論文に出会うこととなる。

博士との出会い~研究プロジェクト発足

その論文とは、後の共同研究メンバーの一人となる長崎大学の田中隆薬学博士(教授)による「ビワ含有生理活性成分の科学的分析と応用」という研究論文だった。

早速、論文を頼りにポリフェノール研究の第一人者である長崎大学薬学部の田中隆教授に会いにいく。

田中教授曰く、お茶に何か他の植物を混ぜることで化学反応が起きて異なる成分となる。

そこから毎日昼夜問わず研究に没頭した。

但し、世の中にはブレンド健康茶など出来上がった茶葉と何か別のものをブレンドするお茶は存在するが、茶葉の一次加工時に何かを混ぜるという事例は皆無であった。

そこに宮田さんは目を付けた。

まず、緑茶は一番茶葉はアミノ酸が多くカテキン含有量が少ないので、旨味が強く渋みが弱い。

香味に優れることから、高値で取引されている。

一方、夏場に採れる二番茶、三番茶はアミノ酸が少なくカテキンが多いため渋みが強い。

されに一般的な日本茶で評価される香味が劣るため、価格が低くなる・・・特に研究当時は日本茶全体の相場が下がり続けていたため、小規模産地の長崎では価格が合わずに刈り捨てられることもある悩みの茶葉だ。

しかし、これを発酵茶である紅茶の製法でつくると渋み成分であるカテキン同士が参加重合して渋みが緩和される。

その渋みや苦みを緩和するポリフェノール酸化酵素を活性化させる力を他の植物が持っている可能性が有ることに気づいた。

宮田氏は長崎県工業技術センターの協力を得て、県内で栽培される数十種類もの植物をスクリーニング試験する中から最もお茶と相性が良く、効果が期待できる特産物「びわの葉」に行きついた。

要するに二番茶や三番茶などは紅茶のように発酵させると渋みが少なくなり、これに枇杷の葉を揉み込んで発酵させることで更に渋みや苦みを抑えられ、ほのかな甘みを持つお茶ができるということだ。

この取組みは緑茶離れが進む茶業界において、産業・地域の活性化へとつながる大きなチャレンジとなっていく。

しかも血糖値の抑制や脂肪の減少などにも貢献できる健康的なお茶になるかもしれない…。

この勝負に長崎県は共同研究のパートナーとして長崎県立大学、長崎大学、九州大学と連携体を組み、更なる研究をスタートした。

2004年の話である。